読売ジャイアンツの第59代4番打者「大久保博元」のプロフィール
1992年5月、中尾孝義との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。これは西武では活躍の場がない大久保のために球団管理部長で実質的にジェネラルマネージャーだった根本陸夫が主導したトレードであった。
巨人ではいきなり正捕手として抜擢され、オールスターゲームまでに打率.300、12本塁打を放つ活躍を見せる。また大久保がホームランを打った試合は必ず勝利していたため“大久保が打てば負けない”というジンクスまで生まれた。そのため、藤田元司の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円というボーナスを得た。
1993年は、開幕から村田との併用ながらハイペースで本塁打を量産し、5月27日対ヤクルトスワローズ9回戦ではプロ入り初盗塁を決めるなどしていたが、その試合で死球を受け左腕を骨折すると9月まで戦線を離脱した。しかし、10月2日と10月3日の対広島東洋カープ戦では初めて4番・一塁手で先発出場した。
1995年4月26日、空振りした際にバランスを崩して転倒し足首を骨折したことが遠因となって、28歳の若さでユニフォームを脱いだ。
チームのムードメーカーで大久保が出てくると何かしてくれると期待しながら見ていたのを覚えてます。
「4番での通算成績」
①初試合
1993.10.2 対広島23期回戦
②試合数
2
③打数
7
④安打
1
⑤本塁打
1
⑥打点
1
⑦打率
.143