引退選手
1999年のドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)から5位指名を受け、入団。150km/h近いストレートが持ち味であったものの、投手としては2年間1軍での登板がなければ野手転向となる条件付きであった。2000年の最終戦であったヤクルト戦で一軍初登板初先発。…
2003年6月9日に河原純一の不振によって不在となった抑え役を期待されて読売ジャイアンツと契約した。チーム2位の5セーブを挙げたものの、安定感を欠いたため、首脳陣からの信頼は得られなかった。翌2004年も残留したが一軍に上がることさえなく、解雇された…
入団当時はカーブ等変化球習得に時間がかかったが、1988年にはフォートマイヤーズ・ミラクルに留学を経験した後、1989年4月29日にプロ初先発初勝利を記録。1990年には自身唯一となる二桁勝利を記録し、この年セ・リーグ最多のシーズン182奪三振を記録し、オ…
2008年、初の開幕一軍入りを決め、3月28日の対東京ヤクルトスワローズ戦で中継ぎとしてプロ初登板。7月25日の東京ヤクルトスワローズ戦で初勝利を挙げる。シーズン途中からは山口鉄也と共に中継ぎの柱を担った。チーム最多の68試合に登板した。 2009年、開幕…
2008年4月3日の対中日ドラゴンズ戦(東京ドーム)で移籍後初セーブを挙げる。このシーズンは41セーブをあげ、来日4シーズン目にして初の最多セーブ投手のタイトルを獲得、移籍1年目で優勝に貢献した。巨人からの最多セーブ投手輩出は1993年の石毛博史以来15…
2006年は14試合目で初めて救援に失敗し、先発だった高橋尚成が抑えに回って中継ぎとなる。2007年も開幕当初は抑えを務め、4月11日の対広島東洋カープ戦でプロ野球史上5人目の通算150セーブを達成。しかし4月中に救援失敗が2度あり、上原浩治が抑えに回って以…
1995年6月3日の対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)でプロ初登板・初先発。この年は右肘側副靱帯断裂で離脱した桑田真澄をカバーする形で先発陣に入って新人ながら8勝、そのうち対阪神タイガース戦で3試合連続完封を含む6勝をあげる。 1997年、主に中継ぎと…
1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で完全試合を達成(槙原寛己の完全試合)。この時の槙原を最後に日本プロ野球では完全試合達成者は途絶えており、現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見…
1992年のドラフト3位で巨人に入団。プロ入り後は、2年間はプロ入り前からの故障の影響もあり通算2試合の登板に終わるが、3年目1995年のシーズン途中から150km/hオーバーの速球とスライダー・フォークを武器に不調の石毛博史に代わり抑えとして、5勝7セーブ、…
地元・大阪のPL学園高校の右のエース(背番号・10)として、左のエース野村弘樹との二枚看板で1987年に甲子園で春・夏連覇に貢献(同校初)。同学年のチームメートに立浪和義・片岡篤史・野村弘樹・桑田泉らがいた。また、入学当初PL学園の寮では通常1年生と3年…
1992年、宮田征典投手コーチに「故障で長いイニングは持たないが、連投の効く体質を見出され(本人談)」、藤田元司監督に抑え投手としての適性を見出される。 1993年には最高速154km/hの荒れ球のストレート(故障で肘が曲がっていることによる)とフォーク…
池田高校時代は、1982年、1983年の全国高等学校野球選手権大会、1983年の選抜高等学校野球大会と3大会連続甲子園に出場。82年夏・83年春における史上4校目の「夏・春連続制覇」、1983年夏のベスト4進出の中心選手として活躍した。83年春・夏はエース・4番と…
萩商高から電電中国(1985年度よりNTT中国)を経て、1985年のドラフト会議にて読売ジャイアンツから2位指名を受け入団。巨人時代の1989年、150km/h近い快速球を投げるのにもかかわらずコントロールも良いという特長を当時の藤田元司監督に見込まれ、それまで…
右サイドスローからの多彩な変化球が持ち味で、キレの良いスライダーとシンカーに加え、1989年頃からはチェンジアップも持ち球に加えていた。サイドスローのため、左打者を苦にすると見られる事が多かったが、膝下に落ちるスライダーなどがあって左打者の方…
1986年の春季キャンプ期間中に読売ジャイアンツに入団(当初巨人はデイブ・スチュワートの獲得を目指していたが、トラブルから獲得を断念しており、その代わりとしての入団だった)。クローザーとして期待通りの活躍を見せ、特に被本塁打はわずかに1本だった…
1年目の1978年に5勝7セーブで新人王を獲得。その年のオフにサイドスローに転向して才能が開花した。球速こそ落ちたものの、課題だったコントロールが向上したことから頭角を現す。制球力に課題があるため完投が期待できず、先発投手としては難があったものの…
2010年、5月3日の対ヤクルト戦で勝利投手となり、史上8人目の12球団勝利を達成した。この年は1年間ローテーションを守り、前年と同じ7勝を挙げた。2011年は中継ぎで1試合の登板に終わり、25%の減額制限を超える半額の3500万円で更改した。 2012年1月11日、…
2007年、8月にようやく初勝利しヒーローインタビューで涙を流すも、次の登板で7失点するなど先発では結果を残せなかった。リリーフ登板でも、9月18日の阪神タイガースとの天王山といえる試合で敗戦投手となった。クライマックスシリーズでは中継ぎ投手として…
2006年は1試合の登板に終わり、2007年は開幕ローテーション入りこそ逃したものの、リリーフとして開幕一軍入りし、5月1日に古巣である対中日戦で移籍後初勝利を挙げる。その後もリリーフの一角として存在感を示していたが、徐々に打ち込まれるようになり8月…
巨人ではセットアッパーとして固定されると、移籍1年目から安定した力を発揮。2004年9月26日に通算500試合登板を達成し、勝利投手にもなっている。2005年には史上11人目となる1イニング4奪三振を記録。中継ぎ専任後は比較的安定していた防御率も、2006年は7.…
2000年は12勝を挙げてリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。2001年は5試合の登板に終わったが、2002年以降は先発ローテーションの一員としてチームに貢献。2004年8月17日、対ヤクルト戦で2失点…
1995年オフにフリーエージェント権を行使して読売ジャイアンツ(巨人)に移籍。移籍1年目の1996年には序盤こそ2軍にいたが、中盤に一軍に上がってから初めてリリーフ専任となり、7月の月間MVPにも選ばれる。39試合に登板して6勝1敗3セーブを挙げリーグ優勝に…
長嶋茂雄監督から直接誘われたこともあって巨人に入団した。1995年は4勝に終わり、1996年も4月から不振で5月に先発ローテーションから外された。リリーフでは防御率1点台前半の好成績を残し、9月24日にはプロ16年目にして初のセーブを記録している。10月6日…
2012年。巨人が自前で獲得した左打ち専門の外国人選手は1992年のロイド・モスビー以来20年ぶりとなる。シーズン終盤に昇格して3試合で8打数4安打と結果を残し、クライマックスシリーズ出場メンバー入りする。CSでも10打数5安打を放ち、北海道日本ハムファイ…
首位打者を1度、本塁打王を2度、打点王を4度、さらに最多安打を3度獲得するなど打撃に優れている。早打ちの傾向があり、2007年の初球打ちの打率は5割を超えたが、それゆえに四球が非常に少ない。巨人移籍後は出場試合が多いながらも全てのシーズンで三振は10…
1999年は126試合に出場し打率.289、18本塁打の成績を残した。 2000年9月24日の対中日戦では巨人のセントラル・リーグ優勝を決めるサヨナラ本塁打を打った。 22002年には二番打者として定着、112試合に出場し、巨人の遊撃手としては初の20本塁打以上となる24…
2006年開幕戦で加藤武治から巨人移籍後初本塁打を放った。8月1日には日韓通算400本塁打を達成、故障者続出の中でフル出場を続け、打率.323・本塁打41・打点108と来日以降最高の成績をマークした。前年まで苦しんでいた左投手に対してもこの年は打率.338をマ…
2004年、3番・三塁手で阪神との開幕戦に出場すると、翌試合に福原忍から東京ドームのライトスタンド中段へ移籍後初安打・初本塁打を記録。5月には負担の少ないすり足打法から元の一本足打法に戻すと、本塁打を量産。前半戦最後の3連戦で4本塁打を放つなど活…
2003年、一塁手には清原和博がいたため、主に外野手として出場。同年5月、左膝故障で登録抹消。その影響で100試合の出場にとどまったが、打撃面では9月13日に史上11人目となる5年連続30本塁打を記録するなど、打率.322、34本塁打、81打点の成績を残した。ま…
1999年は打線の迫力不足に悩んでいた巨人が6月に獲得。最初は代打で不振が続いたものの、レフトでのスタメンで起用されると活躍し、同年は不振と故障に喘いだ清原に代わり、4番・ファーストに入ることも多かった。 対広島東洋カープ戦でレフトポール際の本塁…