読売ジャイアンツの歴代ストッパー「橋本清」のプロフィール
地元・大阪のPL学園高校の右のエース(背番号・10)として、左のエース野村弘樹との二枚看板で1987年に甲子園で春・夏連覇に貢献(同校初)。同学年のチームメートに立浪和義・片岡篤史・野村弘樹・桑田泉らがいた。また、入学当初PL学園の寮では通常1年生と3年生が同部屋になる決まりで、入学前から憧れていた清原和博と同部屋で部屋子として、寮内外問わず可愛がっていただいたと後に語っている。
同年秋のドラフト会議で読売ジャイアンツが1位指名で交渉権を獲得し、数回の入団交渉を経て契約金5500万円、年俸480万円(金額は推定)で入団合意した。
プロ入り後しばらくは芽が出なかったが、入団6年目となる1993年には一軍に定着し、150km/h超のストレートとフォークボールを武器にセットアッパー役を務めた。抑え役の石毛博史につなぐ継投策は、当時の監督である長嶋茂雄によって勝利の方程式と名付けられた。
「通算成績」
①初試合
1992年9月30日、対横浜大洋ホエールズ24回戦
②登板数
134
③勝敗数
9勝12敗8セーブ
④勝率
.429
⑤防御率
3.17