なんちゃって村田のジャイアンツ blog

ジャイアンツ、試合結果、選手プロフィール

引退選手

読売ジャイアンツの第66代4番打者「高橋由伸」のプロフィール

1998年プロ1年目での打率3割(規定打席到達)は史上7人目、セ・リーグでは長嶋茂雄以来40年ぶり。さらに新人での満塁本塁打3本は史上初だった。 1999年 開幕戦から3試合連続本塁打を放ち、4月には打率.433、8本塁打、29打点を記録し月間MVPを獲得。 2000年9…

読売ジャイアンツの第65代4番打者「石井浩郎」のプロフィール

1996年には左手首を骨折し、2試合の出場にとどまる。同年オフ、球団が日本プロフェッショナル野球協約の制限を超える50%ダウンの年俸提示に対して、年俸調停を申請。日本野球機構からの要請を受け、一旦近鉄と契約した後に石毛博史・吉岡雄二との2対1の交換…

読売ジャイアンツの第64代4番打者「清原和博」のプロフィール

1996年にFA宣言。巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という口説き文句が話題となった。5年契約で念願の巨人に移籍した。 1997年は開幕3試合目に移籍第一号となる本塁打を放って、西武時代の終盤と遜色ない成績を残す。 1998年は原辰徳の12…

読売ジャイアンツの第63代4番打者「シェーン・マック」のプロフィール

1994年から1995年のMLBストライキの影響もあって1995年に総額8億円(推定)の2年契約という当時としては破格の条件で読売ジャイアンツに入団。前年は、規定不足ながら打率.333・15本塁打と活躍していただけあって大いに期待された。もっとも、獲得が決まった…

読売ジャイアンツの第62代4番打者「松井秀喜」のプロフィール

巨人時代は、日本球界を代表する長距離打者で、10年間で332本塁打を放った。高校卒業から10シーズンでの本塁打数は、王貞治の356本に次ぐ歴代2位で、300本以上打った打者は王と松井の2人だけである。OPSでも、通算4000打数以上の選手では王貞治に次いで歴代2…

読売ジャイアンツの第61代4番打者「広澤 克実」のプロフィール

1994年オフにFA宣言し、読売ジャイアンツに移籍。本職は一塁手だが、巨人では落合博満、清原和博と重なり外野を守ることが多くなった。3年目に左翼手から右翼手へコンバートする。移籍初年度の1995年は、開幕から極度の不振も、連続試合出場のため全試合出場…

読売ジャイアンツの第60代4番打者「落合博満」のプロフィール

落合が在籍した94年~96年の3年間、長嶋茂雄が率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献した。94年の優勝決定戦(10.8決戦)で足の内転筋を痛めて以降、落合は重要な下半身からじっくりとリハビリやトレーニングで磨きをかけた。…

読売ジャイアンツの第59代4番打者「大久保博元」のプロフィール

1992年5月、中尾孝義との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。これは西武では活躍の場がない大久保のために球団管理部長で実質的にジェネラルマネージャーだった根本陸夫が主導したトレードであった。 巨人ではいきなり正捕手として抜擢され、オールスタ…

読売ジャイアンツの第58代4番打者「岡崎郁」のプロフィール

1979年にドラフト3位で巨人に指名され、長嶋茂雄監督の説得により入団。河埜和正、篠塚利夫、中畑清、原辰徳などがいたため出場機会に恵まれなかった。 1987年には、失策2で守備率.994と遊撃手としてのシーズン守備率の日本記録(当時)を打ち立てるなど、レ…

読売ジャイアンツの第57代4番打者「ジェシー・バーフィールド」のプロフィール

ニューヨークヤンキース時代は1990年4月26日のシアトル・マリナーズ戦で、4回にランディ・ジョンソンから左中間へフェンスオーバーの大飛球を放ち、通算200本塁打達成かと思われたが、ケン・グリフィー・ジュニアのスーパーキャッチに阻まれた。しかし次の打…

読売ジャイアンツの第56代4番打者「ロイド・モスビー」のプロフィール

1992年開幕後も所属球団が決まっていなかったところ、読売ジャイアンツと年俸80万ドルで(推定)で入団に合意した外国人枠の関係でデニー・ゴンザレスが4月9日にウェーバー公示され、これを待ってモスビーの入団契約が交わされている。 4月21日の対ヤクルト…

読売ジャイアンツの第55代4番打者「フィル・ブラッドリー」のプロフィール

メジャーリーグに入った後はシアトル・マリナーズを中心に活躍。イチローに更新されるまではマリナーズの新人最高打率と最多盗塁記録も持っていた。また1988年と1990年にはリーグ最多死球を記録した。 前年に退団したウォーレン・クロマティに代わり1991年に…

読売ジャイアンツの第54代4番打者「マイク・ブラウン」のプロフィール

1980年、カリフォルニア・エンゼルスからドラフト7巡目で指名され契約。1983年7月21日にメジャーデビュー。その後ピッツバーグ・パイレーツなどでプレー。 1990年に巨人に入団。開幕当初はクリーンアップを打ち活躍したが、ケガもあり70試合の出場に終わった…

読売ジャイアンツの第53代4番打者「吉村禎章」のプロフィール

1982年、ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。高いバッティングセンスと身体能力を武器に2年目の1983年に84試合の出場を果たし、規定打席未到達ながら打率3割2分6厘の好成績を挙げる。 1988年7月6日の対中日ドラゴンズ戦(札幌市円山球場)では、3回に通算…

読売ジャイアンツの第52代4番打者「駒田徳広」のプロフィール

プロ入り3年目の1983年4月10日、開幕2戦目の大洋戦(後楽園球場)で7番・一塁手で先発出場。初回、二軍で得意としていたプロ初先発の右田一彦から、日本プロ野球史上初となるプロ初打席での満塁本塁打を右翼席に放った。 1989年、日本シリーズ第7戦(藤井寺…

読売ジャイアンツの第51代4番打者「呂明賜」のプロフィール

1988年にドラフト外で日本野球機構の読売ジャイアンツに入団。 当時、巨人にはウォーレン・クロマティ、ビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国…

読売ジャイアンツの第50代4番打者「ウォーレン・クロマティ」のプロフィール

1989年、4割を打って引退すると宣言。開幕から長打を捨ててヒットを量産し、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制、規定打席数は試合数×3.1)に到達した時点で打率4割を超えていた(この時点で残り試合を休めば4割打者が誕生していたことになる)。最…

読売ジャイアンツの第49代4番打者「レジー・スミス」のプロフィール

日本での公式戦初出場は1983年4月9日の対大洋戦(後楽園球場)「5番・左翼手」で先発出場。来日初本塁打は1983年4月13日の対ヤクルト戦(神宮球場)。来日1年目はメジャー時代に故障した肩や膝の具合が思わしくなく欠場が多かったが、勝負強いバッティングで…

読売ジャイアンツの第48代4番打者「原辰徳」のプロフィール

1981年、開幕戦に6番・二塁手で先発出場。牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄からプロ初本塁打を放った。22本塁打を放ち新人王を獲得。 1983年は初めて打率3割を記録。打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれた。巨人での3割30本…

読売ジャイアンツの第47代4番打者「松原誠」のプロフィール

1962年、大洋ホエールズに捕手として入団。しかし捕手としての能力に限界を感じ、1963年に一塁手へ転向する。 1970年に30本塁打を放ち、同年から8年連続20本塁打以上を記録し長打力のあるスラッガーとして、低迷していたチームの四番として活躍。 1972年にロ…

読売ジャイアンツの第46代4番打者「ゲーリー・トマソン」のプロフィール

1972年から1980年までメジャーリーグでプレーし、ロサンゼルス・ドジャースをはじめ計4球団を渡り歩いた。1978年にはニューヨーク・ヤンキースで優勝も経験している。なお、この時のメンバーには後に巨人でもチームメートになるロイ・ホワイトがいた。1981年…

読売ジャイアンツの第45代4番打者「中畑清」のプロフィール

1979年に一軍に定着。三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。この年の新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折し、新人王はならなかった。 1981年シーズン途中怪我で戦線離脱。中畑が戦線復帰すると山本に代…

読売ジャイアンツの第44代4番打者「ロイ・ホワイト」のプロフィール

1966年にメジャー昇格後、ニューヨーク・ヤンキース一筋に15年間プレー。ヤンキースの主軸選手として活躍した。1980年、読売ジャイアンツに入団。勝負強いバッティングを買われてクリーンアップを任された。1981年、日本ハムとの日本シリーズ第2戦(10月18日…

読売ジャイアンツの第43代4番打者「山本 功児」のプロフィール

1975年のドラフト5位で読売ジャイアンツに入団した。当時のチームは一塁手に王貞治を擁し、王の控えであった(1979年から1980年にかけ7試合4番打者を務めている)。王の引退後も中畑清・原辰徳の控えに回り出場機会にあまり恵まれず、1984年、三宅宗源とのト…

読売ジャイアンツの第42代4番打者「ジョン・シピン」のプロフィール

1972年に大洋に入団し、常に3割を狙える安定した打撃を売りにクリーンナップの一角として活躍。二塁手として1972年・1973年にダイヤモンドグラブ賞を受賞。1970年代のプロ野球を代表する二塁手となった。その長髪といかつい髭から、当時の特撮番組「快傑ライ…

読売ジャイアンツの第41代4番打者「デーブ・ジョンソン」のプロフィール

1975年4月18日に監督就任1年目の長嶋茂雄が「クリーン・ベースボール」をスローガンに掲げる読売ジャイアンツに入団することが決定し、20日午後8時23分に日航機で羽田空港に来日して、22日ナゴヤ球場での中日戦から黒江透修の残した背番号5をつけて34インチ…

読売ジャイアンツの第40代4番打者「淡口憲治」のプロフィール

1970年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。当時の監督川上哲治の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。1974年頃から頭角を現し、翌1975年には規定打席不足ながらも打率.293の成績を残し、将来を嘱望された。だが1976年に日本ハムファイター…

読売ジャイアンツの第39代4番打者「張本勲」のプロフィール

1976年、高橋一三・富田勝との交換トレードで巨人へ移籍。同年、翌1977年と続けて高打率を残し、2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には7糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい…

読売ジャイアンツの第38代4番打者「柳田真宏」のプロフィール

1968年オフに田中久寿男との交換トレードで読売ジャイアンツ(巨人)に移籍し、V9時代後期の巨人で代打の切り札としてチームを支えた。 1977年に登録名を柳田 真宏に改名。同年はプロ入り11年目にして初の規定打席数に到達し、打率3割4分、本塁打21本の好成…

読売ジャイアンツの第37代4番打者「末次利光」のプロフィール

1965年に読売ジャイアンツ(以下、巨人、巨人軍)に入団。1966年から一軍に定着するが、外野手層の厚い巨人では準レギュラーが長かった。しかし1969年には右翼手の定位置を獲得し、1970年には規定打席(25位、打率.249)に達する。川上哲治が監督として率い…