なんちゃって村田のジャイアンツ blog

ジャイアンツ、試合結果、選手プロフィール

引退選手

読売ジャイアンツの第36代4番打者「柴田勲」のプロフィール

1962年に読売ジャイアンツに入団。投手成績は芳しくなく0勝2敗で「投手失格」の烙印を押される。そして野手に転向し左打ちに取り組み、スイッチヒッターとなる。 翌1963年にレギュラー獲得。以後は主に1番打者として活躍した。1968年には首脳陣の意向で、打…

読売ジャイアンツの第35代4番打者「森永勝也」のプロフィール

1958年に広島に入団し、1年目から中軸バッターとして活躍する。1962年には.307という2リーグ分裂後の最低打率で球団史上初の首位打者に輝いた。 1967年に宮本洋二郎との交換トレードで巨人に移籍。巨人では代打の切り札として活躍。この年、不振だった長嶋茂…

読売ジャイアンツの第34代4番打者「高倉照幸」のプロフィール

1953年に地元の西鉄に入団する。 1967年に読売ジャイアンツからの譲渡要請に応じ、宮寺勝利(プラス金銭)との交換トレードで移籍する。移籍一年目はONに続く五番・左翼手を任され、ONにもひけを足らない勝負強いバッティングで4割に迫る高打率をキープ。打…

読売ジャイアンツの第33代4番打者「田中久寿男」のプロフィール

1955年に投手として西鉄ライオンズへ入団。翌年に野手へ転向する。 1961年からは右翼手、三番打者に定着して西鉄打線を支える。強肩で長打力もあり、中西太が故障し、豊田泰光がチームを離れた後の中心打者と目された。 1966年に船田和英とのトレードで読売…

読売ジャイアンツの第32代4番打者「吉田勝豊」のプロフィール

1956年の都市対抗に井洋雄投手を擁し四番打者として出場。1回戦で本塁打を放ち富士鉄室蘭を降すが、2回戦で日本コロムビアに9回サヨナラ負け。日鉄二瀬のチームメートには古葉竹識、江藤慎一らがいた。 1957年に東映フライヤーズに入団、1年目から左翼手とし…

読売ジャイアンツの第31代4番打者「相羽 欣厚」のプロフィール

1962年に読売ジャイアンツに入団し主に代打を中心に活動した。1964年6月17日の中日ドラゴンズ戦に左翼手として出場していた際、ジム・マーシャルの大飛球をジャンプして取ろうとした直前レフトスタンドのファンが身を乗り出してこのボールを取ってしまった際…

読売ジャイアンツの第29代4番打者「池沢義行」のプロフィール

1962年(昭和37年)に読売ジャイアンツへ入団。1年目から公式戦に出場、2年目にはレギュラー外野手として113試合に出場した。この年(1963年)は1試合だけだが、4番も経験している。1963年(昭和38年)8月11日の阪神タイガース戦では、リリーフで登板した村…

読売ジャイアンツの第28代4番打者「王貞治」のプロフィール

1960年4月26日後楽園球場での宇野光雄率いる国鉄との6回戦 (ダブルヘッダー第2試合)での村田元一が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げ、打球はライトスタンド最前列に落ちた。公式戦初安打が決勝2ランホームラン (出場11試…

読売ジャイアンツの第27代4番打者「国松彰」のプロフィール

同志社大学在学中の1955年に投手として読売ジャイアンツに入団し、1957年から外野手に転向。ON砲の脇を固める巧打者としてV9時代を支えた。1961年には監督推薦で、1963年にはファン選抜でオールスターゲームに出場した。1970年に現役を引退し、1971年~1973…

読売ジャイアンツの第26代4番打者「坂崎一彦」のプロフィール

1956年に巨人に入団。打法をコンパクトなフォームに変え、3年目の1958年に108試合に出場しレギュラーに定着し、初めてオールスターゲームに出場する。 1959年には主に五番打者を務め、打率.284、15本塁打、64打点を記録、ベストナインを受賞した。同年の天覧…

読売ジャイアンツの第25代4番打者「長嶋茂雄」のプロフィール

1958年4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。 長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、…

読売ジャイアンツの第24代4番打者「与那嶺要」のプロフィール

1951年読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日し、入団。日本プロ野球では戦後初の外国人選手となった。1イニング3盗塁(日本タイ記録)や併殺崩し、本塁でのクロスプレーなどで本場仕込みの走塁技術を発揮し、同年シーズンは規定打数不足な…

読売ジャイアンツの第23代4番打者「柏枝文治」のプロフィール

ハワイ準州(Territory of Hawaii)のフェリントンハイスクールを卒業後、ハワイ朝日というアマチュア野球チームでプレーした。1953年に読売ジャイアンツ(巨人)に入団。巨人では宇野光雄が国鉄スワローズに移籍した後、三塁手のレギュラーポジションを獲得…

読売ジャイアンツの第22代4番打者「藤尾茂」のプロフィール

1953年に読売ジャイアンツに入団。 1955年に51試合にマスクを被って打率.286と打ち、同年の南海との日本シリーズでは、巨人が1勝3敗と追い詰められた第5戦に広田に代わってマスクを被って3番に抜擢され、初回に先制3点本塁打を放つ活躍で巨人の日本一に大き…

読売ジャイアンツの第21代4番打者「樋笠一夫」のプロフィール

読売ジャイアンツから熱心な勧誘を受け、1951年6月に入団する。当時の巨人外野陣は青田昇・与那嶺要・南村侑広らで充実していたことから樋笠は控えに回ることが多く、やがて代打の切り札として存在感を高めていく。1952年には代打として31回起用され、26打数…

読売ジャイアンツの第20代4番打者「宮本俊雄」のプロフィール

1955年に読売ジャイアンツに入団し、1年目から外野の控えとして51試合に出場する。2年目の1956年には南村侑広に替わって右翼手のレギュラーに定着してクリーンアップを打ち、打率.263(リーグ8位)、19本塁打、69打点を記録し打点王のタイトルを獲得。翌1957…

読売ジャイアンツの第19代4番打者「手塚明治」のプロフィール

松本商業から明治大学へ進学。卒業後、アマチュア野球の中央工業、今泉産業、小口工作所に所属した。1949年に読売ジャイアンツへ入団。1年目から控えの内野手として80試合に出場。2年目には三塁のポジションを獲得し、5番打者として117試合に出場した。翌年…

プロ野球熱ケツ情報「ガッツポーズ」

今回はガッツ石松が世界戦で勝利して話題になったと言うことで「ガッツポーズ」がテーマです。 菅野選手は元ソフトバンクの斉藤和己選手がピンチを抑えた時に激しくガッツポーズしていたのに憧れていたそうです。 山口選手はやりたいけど咄嗟に出来ないみた…

読売ジャイアンツの第18代4番打者「南村不可止」のプロフィール

1951年に西日本の球団消滅により読売ジャイアンツに移籍。 巨人では六番右翼手のレギュラーとなって、打率.283、62打点をマークし、 同じ西日本から移籍した平井正明とともに、巨人の両リーグ分裂後の初優勝に貢献した。また同年の日本シリーズでは、第1戦に…

加治前竜一のプロフィール

2008年6月6日、対千葉ロッテマリーンズ戦の延長10回裏1死、同点の場面で川崎雄介から右翼スタンドへプロ入り初打席初本塁打を放ち、サヨナラ本塁打となった。この「プロ初打席サヨナラ本塁打」は日本プロ野球史上初となる快挙であり、メジャーリーグにおいて…

木村拓也のプロフィール

急界屈指のユーティリティープレイヤー 投手以外全てのポジションを守れる(投手も高校時代に経験あり)上にスイッチヒッターであった。本職は元々は捕手で、プロ入り後は主に二塁手・中堅手であるが、プロでは投手以外の全てのポジションを経験した。 そう…

読売ジャイアンツの第17代4番打者「宇野光雄」のプロフィール

1947年に三原脩監督に熱心に勧誘されて読売ジャイアンツに入団するが、肩を故障してしまう。療養中の1948年には同じく肩を壊し調整していた藤本英雄とのキャッチボールの際に、藤本の投げたボールがスライド回転することに気付き、これが藤本のスライダー習…

読売ジャイアンツの第16代4番打者「平山菊三」のプロフィール

下関商業学校時代は遊撃手だった。1学年下に後にチームメイトとなる矢野純一、2学年下に藤本英雄(のち巨人)がいた。 広島鉄道局で当時の監督から「内野ではその強肩を生かせない」との理由で外野手へコンバートされた。 1937年、東京巨人軍に入団。3年目に…

読売ジャイアンツの第15代4番打者「小松原博喜」のプロフィール

横浜商業では第15回選抜中等学校野球大会に出場。卒業後、1942年に大和軍へ入団する。同年4月22日の試合では日本プロ野球記録を更新する1試合14与四球を記録している。翌年にチームが解散し、ヂーゼル自動車に入社する。1947年に読売ジャイアンツへ移籍しプ…

読売ジャイアンツの第14代4番打者「黒沢俊雄」のプロフィール

1944年には人員不足のため供出選手として東京巨人軍へトレード移籍。この1944年、1946年は主軸打者として活躍した。俊足の外野手で、歴代2位となる通算10個のホームスチールを成功させた(歴代1位は与那嶺要の11個)。さらに、1944年5月20日の近畿日本戦(西…

読売ジャイアンツの第13代4番打者「川畑博」のプロフィール

志度商業学校から1942年に巨人軍(現・読売ジャイアンツ)入団する。捕手だったが、戦時中ということもあって投手も兼任していた。1945年に徴兵され、レイテ島で戦っていた。 1946年に復員し、1949年に大映スターズから、復活するものの、戦争で肩を痛めたと…

読売ジャイアンツの第12代4番打者「近藤貞雄」のプロフィール

1944年、黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した。登板しない試合には野手として出場したこともあるなどし、プロ野球が再開された2年後の1946年に大車輪の活躍でチーム最多の23勝をあげるが、秋季キャンプで滞在していた愛媛県松山市で散歩中、進駐軍のジープには…

読売ジャイアンツの第11代4番打者「須田博(ヴィクトル・スタルヒン)」のプロフィール

1936年、東京巨人軍に入団。7月3日の大東京戦に救援登板し、3イニングを無失点に押さえて巨人の公式戦初勝利に貢献した。1938年から1943年まで続く6連覇に大きく貢献した。1937年7月3日にはノーヒットノーランを達成。1939年に日本記録となるシーズン42勝を…

読売ジャイアンツの第10代4番打者「中村政美」のプロフィール

1943年に東京巨人軍に入団。背番号は34。この背番号は1970年4月2日に、金田正一が付けていた番号として永久欠番になったが、巨人軍で初めて背番号34を付けたのが中村だった。投手として入団するも、戦争の激化により応召される選手が続出し、巨人軍と言えど…

読売ジャイアンツの第9代4番打者「小暮力三」のプロフィール

群馬県の名門群馬県立桐生中学(現・群馬県立桐生高等学校)から、読売ジャイアンツに入団。強打者として期待され、1943年には4番打者も経験。第9代の読売ジャイアンツ4番打者となる。しかし、成績は残せず戦後になってパシフィックに移籍。1950年に西鉄クリ…