読売ジャイアンツの第14代4番打者「黒沢俊雄」のプロフィール
1944年には人員不足のため供出選手として東京巨人軍へトレード移籍。この1944年、1946年は主軸打者として活躍した。俊足の外野手で、歴代2位となる通算10個のホームスチールを成功させた(歴代1位は与那嶺要の11個)。さらに、1944年5月20日の近畿日本戦(西宮球場)では1試合2本盗を達成した(歴代1位タイ)。
1947年のシーズン中、腸チフスを発病し6月23日に急死(享年33)。現役選手のまま病死するという異例の事態に球団は球団葬を行った。黒沢の着けていた背番号4は巨人の永久欠番となった。黒沢の欠番については、ほとんどの主力選手を徴兵された戦時下の巨人に球団史上初のトレードで移籍後、4番を打ち、戦後も病に倒れるまで5番・6番打者として活躍した本人への感謝の意として千葉茂を中心とする選手有志が提案し、沢村栄治と共に欠番になった。黒沢が遺言として「自分が死んだら、巨人軍のユニフォームのまま葬って欲しい」と残し、遺体はユニフォーム姿で棺に納められた。
wikipedia内『黒沢俊雄』より引用
今回調べて初めてどんな選手か分かりましたが数少ない永久欠番の選手で素晴らしいですね。
「4番での通算成績」
①初試合
1946.4.27 対セネターズ1回戦
②試合数
37
③打数
136
④安打
38
⑤本塁打
0
⑥打点
18
⑦打率
.279