読売ジャイアンツの第17代4番打者「宇野光雄」のプロフィール
1947年に三原脩監督に熱心に勧誘されて読売ジャイアンツに入団するが、肩を故障してしまう。療養中の1948年には同じく肩を壊し調整していた藤本英雄とのキャッチボールの際に、藤本の投げたボールがスライド回転することに気付き、これが藤本のスライダー習得のきっかけとなった。結局、宇野の肩は治らず1948年シーズン途中で巨人を退団した。
1950年に豊富なキャリアを評価されて巨人に二軍監督として復帰。少ない選手数の中で練習の手伝いをしているうちに肩の故障が回復し、シーズン終盤の39試合に出場して打率3割を記録する。翌1951年からは手塚明治に替わってレギュラー三塁手となって青田昇・川上哲治とともにクリーンアップを打ち、打率.303を記録してセ・リーグ打撃成績10位に入る。1952年も5番南村不可止に次いで6番打者を務めて打率.290(リーグ11位)をマークする。しかし、1953年になるとハワイから来日していきなり.340の高打率を挙げた柏枝文治に押されて出場試合数が減り、同年限りで国鉄スワローズに移籍となった。
1994年4月17日に多発性骨髄腫のため死去。満77歳没
選手の期間は短いですが監督としてのキャリアが素晴らしい人だったみたいですね。
「4番での通算成績」
①初試合
1951.3.29 対松竹1回戦
②試合数
7
③打数
23
④安打
5
⑤本塁打
0
⑥打点
1
⑦打率
.217