読売ジャイアンツの第16代4番打者「平山菊三」のプロフィール
下関商業学校時代は遊撃手だった。1学年下に後にチームメイトとなる矢野純一、2学年下に藤本英雄(のち巨人)がいた。
広島鉄道局で当時の監督から「内野ではその強肩を生かせない」との理由で外野手へコンバートされた。
1937年、東京巨人軍に入団。3年目に左翼のレギュラーポジションを獲得すると川上哲治、千葉茂らとともに巨人軍第一期黄金時代を作り上げた。1942年に応召し、ビルマ戦線に出兵。終戦後、巨人に復帰。戦後も巨人の中心選手として活躍し、前述の「塀際の魔術師」の異名もちょうどこの頃命名された。
しかし、巨人軍の内紛ともいえる「幻の連判状事件」に巻き込まれ、1949年オフに退団。翌1950年、郷里・下関を本拠地とする新規参入球団・大洋ホエールズに移籍。初代キャプテンに任命され中心選手として活躍し、チームが松竹ロビンスと合併し「大洋松竹ロビンス」となった1953年をもって引退。
引退後は大洋球団でスカウト部長、球団常務を歴任。大洋の後身・横浜ベイスターズが38年ぶりに優勝した1998年に亡くなったが、優勝の瞬間を見届けることはできなかった。
wikipedia内『平山菊三』より引用
この方も画像が見当たらなく残念で気になりますが素晴らしい選手だったのは間違いないと思います。
「4番での通算成績」
①初試合
1949.7.19 対急映11回戦
②試合数
3
③打数
11
④安打
2
⑤本塁打
0
⑥打点
2
⑦打率
.182