読売ジャイアンツの第18代4番打者「南村不可止」のプロフィール
1951年に西日本の球団消滅により読売ジャイアンツに移籍。
巨人では六番右翼手のレギュラーとなって、打率.283、62打点をマークし、
同じ西日本から移籍した平井正明とともに、巨人の両リーグ分裂後の初優勝に貢献した。また同年の日本シリーズでは、第1戦に先制二塁打を放つとシリーズを通して16打数9安打の打率.562を記録して、最高殊勲選手を獲得した。なおこの打率は1966年に柴田勲(.565)に破られるまで日本シリーズ記録であった。1952年と1953年は宇野光雄とともに主に五番または六番を打って、2年連続で外野手のベストナインを獲得し、1952年には打率.315で打撃成績4位につけている。1954年に名前を不可止から侑広に改名し、同年から1955年にかけては三番打者を務めた。1957年に40歳で現役引退し、巨人のコーチ(1964年〜1967年)務めている。
1990年4月17日死去。73歳没
黒色に塗ったバットを使い、黒バットの南村として人気を博し、鋭く渋い声で放つ「時間だよ、行こうぜ」とのかけ声をきっかけに、巨人が逆転することがしばしばあったそうです。
「4番での通算成績」
①初試合
1951.5.30 対大洋8回戦
②試合数
17
③打数
74
④安打
20
⑤本塁打
0
⑥打点
12
⑦打率
.270