読売ジャイアンツの第12代4番打者「近藤貞雄」のプロフィール
1944年、黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した。登板しない試合には野手として出場したこともあるなどし、プロ野球が再開された2年後の1946年に大車輪の活躍でチーム最多の23勝をあげるが、秋季キャンプで滞在していた愛媛県松山市で散歩中、進駐軍のジープにはねられそうになったためそれを避けたところ、側溝に転落。そこにガラスの破片があったため、右手中指を負傷してしまう。戦後混乱期にあって迅速な治療を受けられず神経に深い傷を残してしまい、満足な投球ができなくなり巨人を自由契約になる。
中日に移籍1年目の1948年、独特の3本指で投げる「擬似チェンジアップ(パームボール)」を開発し同年6勝、翌1949年7勝、1950年10勝と活躍した。
天地旬良し監督が復帰した1954年、チームがリーグ優勝を果たし、同年限りで引退する。
中日コーチ時代は板東英二をリリーフエースに起用し、投手分業制を球界に定着させ、ロッテコーチ時代は若手有望株の村田兆治の投球フォームを改良しマサカリ投法を完成させたり、大洋監督時代は高木豊、屋敷要、加藤博一の俊足トリオで組んだスーパーカートリオを組んだりした名コーチ・名監督
でした。
「4番での通算成績」
①初試合
1944.5.8 対朝日3回戦
②試合数
2
③打数
8
④安打
2
⑤本塁打
0
⑥打点
1
⑦打率
.250