読売ジャイアンツの第40代4番打者「淡口憲治」のプロフィール
1970年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。当時の監督川上哲治の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。1974年頃から頭角を現し、翌1975年には規定打席不足ながらも打率.293の成績を残し、将来を嘱望された。
だが1976年に日本ハムファイターズから張本勲がトレードで移籍してくると、張本、柳田俊郎、末次利光との外野手のレギュラー争いが激化。レギュラーを奪えなかった淡口は代打での起用が多くなる。1976年10月12日長嶋茂雄監督率いる巨人初優勝のマジック1とした試合の4回裏二死満塁で安仁屋宗八の2球目のスライダーを叩いて10号本塁打を放ったが、これは同時に日本プロ野球通算700本目の満塁本塁打であった。1983年にはプロ入り初の規定打席到達を果たし、打率.302の成績をマークするが、駒田徳広や吉村禎章といった若手の台頭もあり年々出場機会が減少していった。
ゴロ、ライナーの打球が鋭く速い事から、当時の長嶋茂雄監督は淡口のバッティングを超音速旅客機・コンコルドになぞらえ『コンコルド打法』と命名されました。
「4番での通算成績」
①初試合
1976.4.25 対中日2回戦
②試合数
1
③打数
1
④安打
0
⑤本塁打
0
⑥打点
0
⑦打率
.000