読売ジャイアンツの初代監督「藤本定義」のプロフィール
東京鉄道局野球部(現:JR東日本)の監督。1935年、第1回アメリカ遠征から帰国した東京巨人軍との巡業試合で2勝をあげる。この時の巡業で巨人は36勝3敗であり、その3敗のうち2敗を喫させた手腕を見込まれ巨人監督に招聘される。
1936年6月16日に第2回アメリカ遠征から帰国したチームに合流、この年から始まった公式戦に臨んだが直後の夏季大会で2勝5敗と惨敗(こうした経緯から巨人の球団史は藤本を初代監督と位置づけている)。アメリカ遠征のおごりがあったチームを鍛え直すために兵役の終わった三原脩を助監督兼任選手として復帰させ群馬県館林市の分福球場で猛練習を行った。秋季大会は順当に勝利を重ね、巨人を公式戦第1回優勝球団に導いた。在任7年間の9シーズンで7度の優勝という第一次黄金期を築き、1942年シーズン終了をもって辞任
wikipedia内『藤本 定義』より引用
巨人で7回の優勝を果たした戦前は1リーグ時代であったため、通算1000勝以上の監督で、日本シリーズ優勝の経験がないのは藤本の他に西本幸雄、別当薫(リーグ優勝すらない)の2名のみで一度日本シリーズ優勝を味わってもらいたかったですね。
「通算成績」
①就任年数
1936年~1942年
②試合数
604
③勝敗数
422勝168敗14分
④勝率
.715
⑤優勝回数
7
⑥日本一回数
0