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V9「左のエース」高橋一三さん死去

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「長嶋さん、高橋一三さん悼む「忘れられない心根の優しさ」」
 
巨人V9を左のエースとして支えた高橋一三氏が14日午後、多臓器不全のため東京・武蔵野市の病院で死去した。69歳だった。9連覇を達成した73年にも23勝をマークするなど活躍を見せた故人の死去から一夜明けた15日、現役時代から苦楽を共にした、巨人・長嶋茂雄終身名誉監督(79)=報知新聞社客員=が思い出を語り、急逝を悼んだ。

 高橋さんは14日午前になって症状が急転し、武蔵野市内の病院に緊急搬送され、息を引き取った。V9戦士としてともに戦った長嶋さんは突然の訃報に驚き、そして思い出を語った。「本当にいい人でした。とてもとても残念です。巨人が優勝する瞬間はいつも一三さんがマウンドにいる―そんな印象が強く残っています。ペナントレース日本シリーズで何度も胴上げ投手になっているように大試合に強かった。主力になった後でも、2軍落ちしたら若手と同じ練習メニューを黙々とこなすような人でした」

 実直な人柄で知られた高橋さんは、選手としても、指導者としても面倒見が良く、優しかった。長嶋さんも「忘れられないのは、一三さんの心根の優しさでした。勝負の世界に生きるにはちょっと損するぐらいの優しさ、人の良さでした。自分が2度目の監督在任中、コーチで戻ってきてもらったのはその優しさ、器の大きさで若手選手を育ててほしかったからです」と振り返った。

 高橋さんは広島・北川工(現・府中東)から65年に巨人入り。当時、木戸美摸担当スカウトが、その手の大きさにひかれて、球団に獲得を強く勧めたという。2年目の66年にプロ初勝利をマークすると、このシーズン6勝(5敗)を挙げ、この年に入団した1学年下の堀内恒夫氏と共に、73年まで続く9連覇を左右の両輪として支えた。

 150キロは超えていたといわれる直球に大きなカーブ、シュート、それにスクリューボールが武器だった。シーズンの優勝決定試合で5勝、日本シリーズのV決定試合でも4勝を挙げており、73年のペナントレース最終戦、「勝った方が優勝」という甲子園での阪神戦でも先発し、完封で9連覇に花を添えた。75年のオフ、トレードで日本ハムに移籍。81年には14勝6敗、防御率2・94で“後楽園シリーズ”と呼ばれた古巣・巨人との日本シリーズでも第1、5戦に先発するなど、大舞台にも強かった。
 
「内海「本当に感謝」恩師・高橋氏に追悼コメント」
 
巨人の内海哲也投手(33)が15日、恩師・高橋一三氏が14日午後4時59分、多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなったことを受け、球団広報を通してコメントを発表した。

 「訃報を聞き本当に驚いています。私が巨人に入団した2004年に高橋一三さんが二軍監督に就任されました。一年目に思うようなボールが投げられずにプロの壁の高さを痛感していた時、高橋監督からチェンジアップの握り方、投げ方、投げる心構えなど直接指導していただき、今では自分のウイニングショットになっています。物静かな方でしたが打たれた時、怪我をした時、どんな時でも優しく、温かく包んでくれました。今もまだプロ野球選手として続けられているのは高橋監督のおかげです。本当に感謝しています。自分自身、今年は苦しんでいますが教えていただいたチェンジアップではい上がってみせます。見てて下さい」
 
【プロフィール】
広島県出身で1965年、北川工高(当時)から巨人に入団。75年まで在籍し、左のエースとして69年に22勝、73年に23勝を挙げるなどV9を支えた。76~83年に日本ハムに在籍して引退。現役19年間で595試合167勝132敗12セーブ、防御率3.18。最多勝最多奪三振、最高勝率を1度、最優秀投手、ベストナイン沢村賞を2度受賞した。

 84~89、95、96、2002、03年に巨人で一、二軍投手コーチ、04、05年に二軍監督を務めた。