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読売ジャイアンツの監督「三原脩」のプロフィール

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1947年シーズン途中の6月3日には、球団が成績不振に悩まされていたため、監督に就任することを球団側と合意、同6月6日、大学の後輩である監督の中島治康に配慮し、助監督・技術顧問へ就任した。9月には総監督へ就任し、実質的に指揮権を握った。

 

翌1948年は全試合で三原が指揮をとり2位。1949年に試合中に相手南海ホークスの選手を殴打する事件(三原ポカリ事件)を起こし無期限の出場停止処分に処される。後に救済運動があり出場停止100日に減じられ、同年7月23日より復帰(三原が出場停止の間、チームの指揮は監督の中島がとった)。三原の離脱があったもののチームは優勝を果たした(巨人の太平洋戦争後初優勝であり、日本野球連盟リーグ最後の優勝)。

 

1949年には「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、セントラル・リーグへ加盟した1950年より指揮権は水原が握ることになった。監督に就任した水原は、このとき、三原の監督交代には否定的だったが、一方で「三原君は副代表にどうですか。とにかく僕に監督ということなら、一本でやらせてください。」とも球団に提案している。

wikipedia内『三原脩』より引用

 

選手よりも監督として結果を残した素晴らしい監督ですね。

 

「通算成績」

①就任年数


 1947年~1949年

 

②試合数

 

 302

 

③勝敗数

 

 177勝118敗7分

 

④勝率

 

 .600

 

⑤優勝回数

 

 1

 

⑥日本一回数