読売ジャイアンツの歴代ストッパー「上原浩治」のプロフィール
基本的にフォーシームとフォークボールを軸に投げる。巨人時代はこれにカットボールを混ぜて投げていた。最も特筆すべきはその制球力であり、奪三振が多く与四球が少ないピッチャーである。NPB10年間で奪三振率7.99(主にクローザーを務めた2007年は奪三振率9.58)投手としての能力を最も直接的に示す指標である奪三振を与四球で割るK/BBでは、生涯100イニング以上投げた投手の中では日本プロ野球歴代最高となる通算6.88(2位は川上憲伸の3.78、3位は遠藤一彦の3.32であり、上原の数値は突出している)
①初試合
1999年4月4日、対阪神タイガース3回戦
②登板数
276
③勝敗数
112勝62敗33セーブ9ホールド
④勝率
.644
⑤防御率
3.01
⑥タイトル
最多勝:2回 (1999年、2002年)
最優秀防御率:2回 (1999年、2004年)
最多奪三振:2回 (1999年、2003年)
最高勝率:3回 (1999年、2002年、2004年)
⑦節目の記録
1000投球回数:2004年8月3日、対ヤクルトスワローズ17回戦
1000奪三振:2005年5月31日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦
100勝:2006年8月25日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)
1500投球回数:2008年7月20日、対横浜ベイスターズ14回戦
プロ野球 2015 巨人×広島 8回戦 〜MAZDA Zoom-Zoom スタジアム〜
巨人 広島
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「豊田清」のプロフィール
2006年は14試合目で初めて救援に失敗し、先発だった高橋尚成が抑えに回って中継ぎとなる。2007年も開幕当初は抑えを務め、4月11日の対広島東洋カープ戦でプロ野球史上5人目の通算150セーブを達成。しかし4月中に救援失敗が2度あり、上原浩治が抑えに回って以降は中継ぎを務めるといった、前年と同様の場面が見られた。クライマックスシリーズでは2、3戦目に登板して対戦打者6人全てから三振を奪う。
2008年は開幕当初からマーク・クルーンへ繋ぐ中継ぎとなり、50試合に登板。チームトップの26ホールドを挙げた。2009年は開幕から10試合連続で無失点。7月に腰痛で登録抹消されるが、9月以降は全て無失点で抑え、46試合に登板して2勝2敗5セーブ・防御率1.99だった。
①初試合
1995年9月15日、対近鉄バファローズ23回戦
②登板数
558
③勝敗数
66勝50敗157セーブ81ホールド
④勝率
.569
⑤防御率
2.99
⑥タイトル
最優秀救援投手:2回(2002年・2003年)
⑦節目の記録
100セーブ:2003年8月29日、対オリックス・ブルーウェーブ21回戦
150セーブ:2007年4月11日、対広島東洋カープ2回戦
500試合登板:2009年8月21日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「高橋尚成」のプロフィール
上半身と下半身がうまく連動したフォームで、日本での通算与四球率2.50という制球力の良さを持ち味とする。
平均球速88.8mph(約143km/h)、最速92mph(約148km/h)のストレートとスライダー、シンカー(チェンジアップとも呼称される)、シュート(ツーシームとも呼称される)、カーブを投げ分け、稀にフォークとカットボールも交える。丹念にコーナーを突くスタイルを得意とし、2010年はさらにコーナーをつく投球を心がけた結果、日本時代と比べ与四球率は高くなってしまったものの奪三振率が大幅に上昇。リリーフとしてはメジャー通算で8.40と高い奪三振率を記録するようになった。
①初試合
2000年4月6日、対中日ドラゴンズ3回戦
②登板数
255
③勝敗数
79勝72敗15セーブ5ホールド
④勝率
.538
⑤防御率
3.99
⑥タイトル
最優秀防御率:1回 (2007年)
⑦節目の記録
1000投球回:2007年9月9日、対阪神タイガース21回戦
1000奪三振:2009年8月16日、対阪神タイガース18回戦
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「林昌範」のプロフィール
2003年、140キロ前後の球速ながら、ゆったりとした球の出所の見にくいフォームを武器に相手打線を7回1安打無失点に抑え、そのままローテーションに定着する。8月14日にはプロ入り初勝利を挙げるなど15試合登板で3勝3敗・防御率3.22の成績を残した。
2005年は池谷公二郎の指導で投球フォームをスリークォーター気味に改造。先発ローテーションを内海哲也と争ったが敗れ、中継ぎに転向すると、フォーム改造の効果も相まって平均球速が140キロ台後半まで上昇。セットアッパー、シーズン中盤以降は抑えとして安定した投球を見せ、2勝2敗18セーブ、防御率1.61の成績を残す。この年のオフに原辰徳が監督に復帰するが、引き続きリリーフでの起用となる。
2006年、原の構想では久保裕也から林に繋ぎ、新加入の豊田清で締めることになっていたが、久保と豊田のピッチングが不安を見せる中、林は1年を通して安定した投球を続けた。
wikipedia内『林昌範』より引用
①初試合
2003年6月28日、対中日ドラゴンズ13回戦
②登板数
397
③勝敗数
21勝25敗22セーブ95ホールド
④勝率
.457
⑤防御率
3.36
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「久保裕也」のプロフィール
ルーキーシーズンは3月28日の対中日戦にプロ初登板、4月2日の対横浜ベイスターズ戦でプロ初勝利をあげた。最終的に38試合に登板し6勝7敗、防御率4.27の成績を収めた。
2010年
コーチの木村拓也がシーズン中に急死したことを受け、「投手のユーティリティープレイヤーを目指す」という姿勢の元に再起。当初は敗戦処理を務めるも後にセットアッパーを任されるようになり、イニングまたぎやロングリリーフなどまさにユーティリティーな働きを見せた。
シーズン後半は9月15日には自己最速の151km/hをマークし、9月21日の対横浜戦で74試合目の登板を記録。2009年に山口鉄也が記録した73試合を上回り、球団最多登板記録を更新した。結局、シーズン通算で79試合に登板し、チーム最多のホールド数を記録した。
2011年
後半戦から抑えに定着。7月5日の対ヤクルト戦から8月16日の対中日戦まで20試合連続無失点の球団新記録を達成。8月は1勝11セーブ、防御率0.63という好成績を残し、自身初の月間MVPに選出された。
①初試合
2003年3月28日、対中日ドラゴンズ1回戦
②登板数
418
③勝敗数
47勝35敗36セーブ101ホールド
④勝率
.573
⑤防御率
3.47
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「河原純一」のプロフィール
1995年6月3日の対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)でプロ初登板・初先発。この年は右肘側副靱帯断裂で離脱した桑田真澄をカバーする形で先発陣に入って新人ながら8勝、そのうち対阪神タイガース戦で3試合連続完封を含む6勝をあげる。
1997年、主に中継ぎと復帰し6月5日の対中日ドラゴンズ戦で616日ぶりに勝利し、11日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ初セーブを挙げた。
1999年、長いリハビリを経て8月8日の対広島戦に先発登板し勝利。先発での勝利は1995年9月23日の対阪神戦以来で実に1461日ぶりの先発勝利となった。
2000年、シーズン途中から先発入りし、3試合完封勝利を挙げるなどの成績を挙げた
2002年から原辰徳が監督に就任すると抑え投手に抜擢され、7月は9試合に登板して1勝7セーブ・防御率0.00を記録するなど、28セーブを記録。巨人のリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。日本シリーズにも初登板を果たし第4戦では胴上げ投手になった。wikipedia内『河原純一』より引用
①初試合
1995年6月3日、対広島東洋カープ9回戦
②登板数
275
③勝敗数
31勝42敗40セーブ27ホールド
④勝率
.425
⑤防御率
4.26
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「岡島秀樹」のプロフィール
1996年5月7日の広島東洋カープ戦でプロ初勝利を挙げた。
1997年、開幕前の燦々会で当時の長嶋茂雄監督から注目の若手として斉藤宜之と共に大々的に紹介され初の開幕一軍を果たし6番目の先発投手としてローテーション入りを果たした。
1999年8月31日の対中日23回戦の1回表二死の場面で、先発の斎藤雅樹が怪我のため降板し、2番手として登板。その後9回まで投げ抜いて0点に抑えた。これにより1試合最多リリーフポイント4.15を記録した。
2000年には怪我で離脱した槙原寛己に代わり抑えを務め優勝に貢献し日本シリーズでは胴上げ投手になった。
2001年にも抑えを務め、4月30日の広島戦で史上初の4月での月間10セーブを記録。6月26日には札幌ドーム初のプロ野球公式戦(中日戦)でセーブを記録した。
①初試合
1995年10月6日、対中日ドラゴンズ26回戦
②登板数
539
③勝敗数
38勝38敗50セーブ72ホールド
④勝率
.500
⑤防御率
3.09
⑥節目の記録
500試合登板:2014年4月8日、対埼玉西武ライオンズ1回戦
⑦その他の記録
1イニング4奪三振:1997年7月4日、対阪神タイガース14回戦
1球勝利投手:2004年7月27日、対広島東洋カープ19回戦
オールスターゲーム出場:3回(2000年、2001年、2002年)
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「槇原寛己」のプロフィール
1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で完全試合を達成(槙原寛己の完全試合)。この時の槙原を最後に日本プロ野球では完全試合達成者は途絶えており、現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見の際に記者からの質問で「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」と答えた程で、本人にとってプロ野球人生の中で最高の思い出となっている。
wikipedia内『槇原寛己』より引用
①初試合
1983年4月16日、対阪神タイガース2回戦
②登板数
463
③勝敗数
159勝128敗56セーブ
④勝率
.554
⑤防御率
3.19
⑥タイトル
最多奪三振:1回 (1988年)
⑦節目の記録
1000投球回:1989年6月27日、対広島東洋カープ10回戦
1000奪三振:1991年6月16日、対横浜大洋ホエールズ9回戦
1500投球回:1992年9月1日、対ヤクルトスワローズ21回戦
100勝:1993年7月13日、対広島東洋カープ14回戦
1500奪三振:1994年5月31日、対中日ドラゴンズ7回戦
2000投球回:1995年7月31日、対ヤクルトスワローズ18回戦
2000奪三振:1998年6月18日、対中日ドラゴンズ14回戦
150勝:1998年5月5日、対横浜ベイスターズ4回戦
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「趙成珉」のプロフィール
韓国アマ球界のエースとして活躍し、1996年に異例の8年契約で読売ジャイアンツへ入団。2年目の1997年後半から一軍に昇格。速球とスライダーを武器に抑えとして活躍し、あこがれの宣銅烈とも投げ合うなど徐々に頭角を現す。1998年は先発に転向し開幕からローテーションの一角に入り、好投しても負ける不運等があったが前半だけで6完投3完封で7勝を挙げエースの座を掴みかけたが、この年のオールスターゲームの登板で右ひじを故障。その後一軍登板できずシーズンを終えた。この怪我以降一転して不運なプロ野球人生を辿る。
以降は右肘の手術とリハビリ、他の外国人選手との兼ね合いもあり顔見世程度の一軍登板を繰り返す事となり、大きな活躍は見せられなくなる。2000年、韓国の人気女優チェ・ジンシル(崔真実)と結婚。2002年5月のヤクルト戦で約2年ぶりの先発勝利をあげたが、その年のオフ、契約を1年残しながら自主的に退団。
wikipedia内『趙成珉』より引用
①初試合
1997年7月5日、対阪神タイガース15回戦
②登板数
53
③勝敗数
3勝4敗0セーブ4ホールド
④勝率
.429
⑤防御率
5.09
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「西山一宇」のプロフィール
1992年のドラフト3位で巨人に入団。
プロ入り後は、2年間はプロ入り前からの故障の影響もあり通算2試合の登板に終わるが、3年目1995年のシーズン途中から150km/hオーバーの速球とスライダー・フォークを武器に不調の石毛博史に代わり抑えとして、5勝7セーブ、防御率0.55という驚異的な成績を残し下位に沈んでいたチームの浮上に貢献した。当時の監督の長嶋茂雄に「佐々木主浩以上」と評される。
1996年ロングリリーフや敗戦処理等で徐々に調子を取り戻し、完投能力は無かったものの、谷間の先発に起用されるなどして自己最多の6勝を挙げチームのリーグ制覇に貢献した。
1998年、安定感抜群のピッチングを見せ、左の河野博文と共に中継ぎの柱となったが、1999年になると前年の活躍が嘘のように打ち込まれ、この年以降一軍と二軍を短い間隔で行き来するようになる。
一軍登板が0に終わった2003年限りで現役引退。
wikipedia内『西山一宇』より引用
①初試合
1993年10月3日、対広島東洋カープ24回戦
②登板数
207
③勝敗数
24勝18敗12セーブ
④勝率
.571
⑤防御率
4.11
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「マリオ・ブリトー」のプロフィール
1996年シーズン途中に巨人がストッパー候補だった西山一宇、石毛博史の不振を受け獲得した。先に入団した同じドミニカ出身のバルビーノ・ガルベスが台湾球界に所属していた頃の同僚でガルベス自身の紹介による入団だった。
来日初登板となった5月7日の対広島戦では4者連続三振を奪う活躍で初セーブをマーク。その後も主にクローザーとして起用され、前半戦終了時点で1勝14セーブの好成績でリリーフ陣の救世主的存在となる。しかし後半戦に入ると打ちこまれる試合が目立ち結局5セーブしか挙げられず、最終的にクローザーの座を川口和久に明け渡した。トータルで39試合に登板、3勝2敗19セーブ、防御率3.33という成績で「メークドラマ」と言われる逆転優勝に貢献し日本シリーズにも出場したが、後半戦の不振が響き1シーズンで退団となった。決め球は長身から放たれる落差50cmのフォークボールで「お化けフォーク」と呼ばれた。
①初試合
1996年5月7日、対広島東洋カープ5回戦
②登板数
39
③勝敗数
3勝2敗19セーブ
④勝率
.600
⑤防御率
3.33
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「橋本清」のプロフィール
地元・大阪のPL学園高校の右のエース(背番号・10)として、左のエース野村弘樹との二枚看板で1987年に甲子園で春・夏連覇に貢献(同校初)。同学年のチームメートに立浪和義・片岡篤史・野村弘樹・桑田泉らがいた。また、入学当初PL学園の寮では通常1年生と3年生が同部屋になる決まりで、入学前から憧れていた清原和博と同部屋で部屋子として、寮内外問わず可愛がっていただいたと後に語っている。
同年秋のドラフト会議で読売ジャイアンツが1位指名で交渉権を獲得し、数回の入団交渉を経て契約金5500万円、年俸480万円(金額は推定)で入団合意した。
プロ入り後しばらくは芽が出なかったが、入団6年目となる1993年には一軍に定着し、150km/h超のストレートとフォークボールを武器にセットアッパー役を務めた。抑え役の石毛博史につなぐ継投策は、当時の監督である長嶋茂雄によって勝利の方程式と名付けられた。
①初試合
1992年9月30日、対横浜大洋ホエールズ24回戦
②登板数
134
③勝敗数
9勝12敗8セーブ
④勝率
.429
⑤防御率
3.17
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「石毛博史」のプロフィール
1992年、宮田征典投手コーチに「故障で長いイニングは持たないが、連投の効く体質を見出され(本人談)」、藤田元司監督に抑え投手としての適性を見出される。
1993年には最高速154km/hの荒れ球のストレート(故障で肘が曲がっていることによる)とフォークボール・スライダーを武器に当時の球団記録となる30セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得。1994年にもリーグ最多の19セーブを挙げる
1993年から1994年にかけて、当時の監督であった長嶋茂雄は、セットアッパー橋本清と共に、勝ちパターンのリリーフコンビとしてこの二人を「勝利の方程式」と呼び、この言葉をマスコミの間に広めた。
1995年には100セーブポイントを達成する。
1996年日本シリーズでは好投しシリーズ第4戦この年唯一のシリーズチーム勝利の試合で自身初となるシリーズ初セーブを記録した。
①初試合
1991年4月18日、対横浜大洋ホエールズ戦
②登板数
375
③勝敗数
34勝29敗83セーブ
④勝率
.540
⑤防御率
3.44
⑥タイトル
最優秀救援投手:1回 (1993年)
読売ジャイアンツの歴代ストッパー「水野雄仁」のプロフィール
池田高校時代は、1982年、1983年の全国高等学校野球選手権大会、1983年の選抜高等学校野球大会と3大会連続甲子園に出場。82年夏・83年春における史上4校目の「夏・春連続制覇」、1983年夏のベスト4進出の中心選手として活躍した。83年春・夏はエース・4番として出場、その風貌も相まって「阿波の金太郎」と呼ばれた。
1983年のプロ野球ドラフト会議1位で読売ジャイアンツに指名され入団。背番号は江川の続番である「31」となった。1986年には一軍に定着して8勝をマーク。王貞治監督時代の1987年には10勝をあげ、リーグ優勝に貢献した。
藤田元司、長嶋茂雄両監督時代は中継ぎ、抑えとして活躍。オープン間もない東京ドームで開催された1988年のオールスターゲーム第3戦で、延長12回に代打として登場し、サヨナラ犠牲フライを放った。しかし、2年目に肩を痛め、9年目に右肘の遊離軟骨で苦しむなど常に怪我との戦いで1996年限りで一度引退した。
①初試合
1984年5月22日、対阪神タイガース10回戦
②登板数
265
③勝敗数
39勝29敗17セーブ
④勝率
.574
⑤防御率
3.10