読売ジャイアンツの第6代4番打者「水原茂」のプロフィール
現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、1942年を最後に応召してアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年7月20日に帰国。4日後の10:30に東京駅に列車で到着したその足で後楽園球場に行き、そこで行われる巨人対大映戦(ダブルヘッダー)の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」の言と共に帰還をファンに報告した。
引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セントラル・パシフィック両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。
東映退団後の1968年、中日退団後の1972年以降は東京放送(現:TBSテレビ・TBSラジオ)専属野球解説者・野球評論家として活動した。1977年野球殿堂入り。
1982年3月26日、肝不全のため亡くなった。73歳没。葬儀は、1947年に腸チフスで現役中に急逝し背番号4が永久欠番となった黒沢俊夫に次ぐ史上2人目の読売巨人軍の球団葬として行われており偉大な監督であったことが伺えます。
「4番での通算成績」
①初試合
1937.9.29 対ライオン3回戦
②試合数
4
③打数
15
④安打
2
⑤本塁打
1
⑥打点
2
⑦打率
.133