なんちゃって村田のジャイアンツ blog

ジャイアンツ、試合結果、選手プロフィール

歴代4番打者

読売ジャイアンツの第21代4番打者「樋笠一夫」のプロフィール

読売ジャイアンツから熱心な勧誘を受け、1951年6月に入団する。当時の巨人外野陣は青田昇・与那嶺要・南村侑広らで充実していたことから樋笠は控えに回ることが多く、やがて代打の切り札として存在感を高めていく。1952年には代打として31回起用され、26打数…

読売ジャイアンツの第20代4番打者「宮本俊雄」のプロフィール

1955年に読売ジャイアンツに入団し、1年目から外野の控えとして51試合に出場する。2年目の1956年には南村侑広に替わって右翼手のレギュラーに定着してクリーンアップを打ち、打率.263(リーグ8位)、19本塁打、69打点を記録し打点王のタイトルを獲得。翌1957…

読売ジャイアンツの第19代4番打者「手塚明治」のプロフィール

松本商業から明治大学へ進学。卒業後、アマチュア野球の中央工業、今泉産業、小口工作所に所属した。1949年に読売ジャイアンツへ入団。1年目から控えの内野手として80試合に出場。2年目には三塁のポジションを獲得し、5番打者として117試合に出場した。翌年…

読売ジャイアンツの第18代4番打者「南村不可止」のプロフィール

1951年に西日本の球団消滅により読売ジャイアンツに移籍。 巨人では六番右翼手のレギュラーとなって、打率.283、62打点をマークし、 同じ西日本から移籍した平井正明とともに、巨人の両リーグ分裂後の初優勝に貢献した。また同年の日本シリーズでは、第1戦に…

読売ジャイアンツの第17代4番打者「宇野光雄」のプロフィール

1947年に三原脩監督に熱心に勧誘されて読売ジャイアンツに入団するが、肩を故障してしまう。療養中の1948年には同じく肩を壊し調整していた藤本英雄とのキャッチボールの際に、藤本の投げたボールがスライド回転することに気付き、これが藤本のスライダー習…

読売ジャイアンツの第16代4番打者「平山菊三」のプロフィール

下関商業学校時代は遊撃手だった。1学年下に後にチームメイトとなる矢野純一、2学年下に藤本英雄(のち巨人)がいた。 広島鉄道局で当時の監督から「内野ではその強肩を生かせない」との理由で外野手へコンバートされた。 1937年、東京巨人軍に入団。3年目に…

読売ジャイアンツの第15代4番打者「小松原博喜」のプロフィール

横浜商業では第15回選抜中等学校野球大会に出場。卒業後、1942年に大和軍へ入団する。同年4月22日の試合では日本プロ野球記録を更新する1試合14与四球を記録している。翌年にチームが解散し、ヂーゼル自動車に入社する。1947年に読売ジャイアンツへ移籍しプ…

読売ジャイアンツの第14代4番打者「黒沢俊雄」のプロフィール

1944年には人員不足のため供出選手として東京巨人軍へトレード移籍。この1944年、1946年は主軸打者として活躍した。俊足の外野手で、歴代2位となる通算10個のホームスチールを成功させた(歴代1位は与那嶺要の11個)。さらに、1944年5月20日の近畿日本戦(西…

読売ジャイアンツの第13代4番打者「川畑博」のプロフィール

志度商業学校から1942年に巨人軍(現・読売ジャイアンツ)入団する。捕手だったが、戦時中ということもあって投手も兼任していた。1945年に徴兵され、レイテ島で戦っていた。 1946年に復員し、1949年に大映スターズから、復活するものの、戦争で肩を痛めたと…

読売ジャイアンツの第12代4番打者「近藤貞雄」のプロフィール

1944年、黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した。登板しない試合には野手として出場したこともあるなどし、プロ野球が再開された2年後の1946年に大車輪の活躍でチーム最多の23勝をあげるが、秋季キャンプで滞在していた愛媛県松山市で散歩中、進駐軍のジープには…

読売ジャイアンツの第11代4番打者「須田博(ヴィクトル・スタルヒン)」のプロフィール

1936年、東京巨人軍に入団。7月3日の大東京戦に救援登板し、3イニングを無失点に押さえて巨人の公式戦初勝利に貢献した。1938年から1943年まで続く6連覇に大きく貢献した。1937年7月3日にはノーヒットノーランを達成。1939年に日本記録となるシーズン42勝を…

読売ジャイアンツの第10代4番打者「中村政美」のプロフィール

1943年に東京巨人軍に入団。背番号は34。この背番号は1970年4月2日に、金田正一が付けていた番号として永久欠番になったが、巨人軍で初めて背番号34を付けたのが中村だった。投手として入団するも、戦争の激化により応召される選手が続出し、巨人軍と言えど…

読売ジャイアンツの第9代4番打者「小暮力三」のプロフィール

群馬県の名門群馬県立桐生中学(現・群馬県立桐生高等学校)から、読売ジャイアンツに入団。強打者として期待され、1943年には4番打者も経験。第9代の読売ジャイアンツ4番打者となる。しかし、成績は残せず戦後になってパシフィックに移籍。1950年に西鉄クリ…

読売ジャイアンツの第8代4番打者「青田昇」のプロフィール

1942年に戦争で甲子園大会が中止となったため中学を中退し、同年7月に17歳で東京巨人軍に入団。1943年には打率.223、本塁打0本で打点王を獲得する珍しい記録となった。 1944年には巨人軍を退団し、自らの志願で陸軍航空隊に入隊した。遂に出撃命令を受けたが…

読売ジャイアンツの第7代4番打者「川上哲治」のプロフィール

1938年に東京巨人軍に投手として入団。 1939年から1シーズン制に戻り、同年に19歳にして首位打者を獲得。以後1941年にも首位打者に輝いた。 1946年8月26日の中日戦で、銀座の運動具メーカー南風運動具店からプレゼントされた赤いバットを使ってプレーした。…

読売ジャイアンツの第6代4番打者「水原茂」のプロフィール

現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、1942年を最後に応召してアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年7月20日に帰国。4日後の10:30に東京駅に列車で到着したその足で後楽園球場に行き、そこで行われる巨人対大映戦…

読売ジャイアンツの第5代4番打者「前川八郎」のプロフィール

1936年、東京巨人軍に入団。7月1日に行われた初の公式戦2番・二塁手で先発し、途中沢村栄治をリリーフ後にまた二塁手に戻った。5打数2安打を放ったが、投手としては打たれ巨人初の公式戦敗戦投手ともなった。同年7月3日の対大東京軍戦でも、2番・二塁手でフ…

読売ジャイアンツの第4代4番打者「筒井修」のプロフィール

巨人では4番に名を連ね、チームの優勝(公式戦初代覇者)にも貢献するが、1937年のプレーオフ直前に召集されたのを機に人生が暗転する。 1941年に復員してチームに合流するが、選手としてプレーしたのはこの年が最後。2度目の応召を受け、手榴弾の暴発によ…

読売ジャイアンツの第3代4番打者「中島治康」のプロフィール

1936年のリーグ戦開始時から巨人でプレーし、強打・強肩の外野手として活躍。1938年秋季には打率.361、本塁打10、打点38でプロ野球史上初の三冠王となった。1943年に監督兼任。1946年シーズン途中に兼任監督として復帰。翌年は開幕からチームが不調で、29試…

読売ジャイアンツの第2代4番打者「伊藤健太朗」のプロフィール

最初のプロ野球リーグ戦が始まった1936年の2試合目(7月3日)に初めて4番打者として先発出場し、3打数2安打2打点で巨人の公式戦初勝利に貢献した。 1936年の各シーズンでは、伊藤は精彩を欠いたが、翌1937年春のシーズンから本来の強打を発揮し始めた。伊藤…

読売ジャイアンツの初代4番打者「永沢富士雄」のプロフィール

函館商業学校を卒業後、1925年に函館太洋倶楽部(函館オーシャン倶楽部)に入団。当初は外野手であったが、選手兼任監督の久慈次郎の指導により後に一塁手に転向した。1934年にベーブ・ルースが来日した際の日米野球で日本代表に選ばれ、久慈の推薦によりこ…

原辰徳のプロフィール

大胆かつ絶妙な采配で、常に勝利を求めてチームを統率する指揮官。昨季逃した日本一を奪回すべく、進化のための改革を進める。セ・リーグ4連覇、そして悲願の日本一奪回を目指し、常勝軍団の先頭に立つ。 個人的には高校生の時に観た1989年の近鉄との日…