なんちゃって村田のジャイアンツ blog

ジャイアンツ、試合結果、選手プロフィール

歴代4番打者

読売ジャイアンツの第51代4番打者「呂明賜」のプロフィール

1988年にドラフト外で日本野球機構の読売ジャイアンツに入団。 当時、巨人にはウォーレン・クロマティ、ビル・ガリクソンといった元メジャーリーグ選手の外国人選手が在籍していたため、第3の外国人の扱い(当時の日本プロ野球では、出場選手登録できる外国…

読売ジャイアンツの第50代4番打者「ウォーレン・クロマティ」のプロフィール

1989年、4割を打って引退すると宣言。開幕から長打を捨ててヒットを量産し、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制、規定打席数は試合数×3.1)に到達した時点で打率4割を超えていた(この時点で残り試合を休めば4割打者が誕生していたことになる)。最…

読売ジャイアンツの第49代4番打者「レジー・スミス」のプロフィール

日本での公式戦初出場は1983年4月9日の対大洋戦(後楽園球場)「5番・左翼手」で先発出場。来日初本塁打は1983年4月13日の対ヤクルト戦(神宮球場)。来日1年目はメジャー時代に故障した肩や膝の具合が思わしくなく欠場が多かったが、勝負強いバッティングで…

読売ジャイアンツの第48代4番打者「原辰徳」のプロフィール

1981年、開幕戦に6番・二塁手で先発出場。牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄からプロ初本塁打を放った。22本塁打を放ち新人王を獲得。 1983年は初めて打率3割を記録。打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれた。巨人での3割30本…

読売ジャイアンツの第47代4番打者「松原誠」のプロフィール

1962年、大洋ホエールズに捕手として入団。しかし捕手としての能力に限界を感じ、1963年に一塁手へ転向する。 1970年に30本塁打を放ち、同年から8年連続20本塁打以上を記録し長打力のあるスラッガーとして、低迷していたチームの四番として活躍。 1972年にロ…

読売ジャイアンツの第46代4番打者「ゲーリー・トマソン」のプロフィール

1972年から1980年までメジャーリーグでプレーし、ロサンゼルス・ドジャースをはじめ計4球団を渡り歩いた。1978年にはニューヨーク・ヤンキースで優勝も経験している。なお、この時のメンバーには後に巨人でもチームメートになるロイ・ホワイトがいた。1981年…

読売ジャイアンツの第45代4番打者「中畑清」のプロフィール

1979年に一軍に定着。三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。この年の新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折し、新人王はならなかった。 1981年シーズン途中怪我で戦線離脱。中畑が戦線復帰すると山本に代…

読売ジャイアンツの第44代4番打者「ロイ・ホワイト」のプロフィール

1966年にメジャー昇格後、ニューヨーク・ヤンキース一筋に15年間プレー。ヤンキースの主軸選手として活躍した。1980年、読売ジャイアンツに入団。勝負強いバッティングを買われてクリーンアップを任された。1981年、日本ハムとの日本シリーズ第2戦(10月18日…

読売ジャイアンツの第43代4番打者「山本 功児」のプロフィール

1975年のドラフト5位で読売ジャイアンツに入団した。当時のチームは一塁手に王貞治を擁し、王の控えであった(1979年から1980年にかけ7試合4番打者を務めている)。王の引退後も中畑清・原辰徳の控えに回り出場機会にあまり恵まれず、1984年、三宅宗源とのト…

読売ジャイアンツの第42代4番打者「ジョン・シピン」のプロフィール

1972年に大洋に入団し、常に3割を狙える安定した打撃を売りにクリーンナップの一角として活躍。二塁手として1972年・1973年にダイヤモンドグラブ賞を受賞。1970年代のプロ野球を代表する二塁手となった。その長髪といかつい髭から、当時の特撮番組「快傑ライ…

読売ジャイアンツの第41代4番打者「デーブ・ジョンソン」のプロフィール

1975年4月18日に監督就任1年目の長嶋茂雄が「クリーン・ベースボール」をスローガンに掲げる読売ジャイアンツに入団することが決定し、20日午後8時23分に日航機で羽田空港に来日して、22日ナゴヤ球場での中日戦から黒江透修の残した背番号5をつけて34インチ…

読売ジャイアンツの第40代4番打者「淡口憲治」のプロフィール

1970年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。当時の監督川上哲治の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。1974年頃から頭角を現し、翌1975年には規定打席不足ながらも打率.293の成績を残し、将来を嘱望された。だが1976年に日本ハムファイター…

読売ジャイアンツの第39代4番打者「張本勲」のプロフィール

1976年、高橋一三・富田勝との交換トレードで巨人へ移籍。同年、翌1977年と続けて高打率を残し、2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には7糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい…

読売ジャイアンツの第38代4番打者「柳田真宏」のプロフィール

1968年オフに田中久寿男との交換トレードで読売ジャイアンツ(巨人)に移籍し、V9時代後期の巨人で代打の切り札としてチームを支えた。 1977年に登録名を柳田 真宏に改名。同年はプロ入り11年目にして初の規定打席数に到達し、打率3割4分、本塁打21本の好成…

読売ジャイアンツの第37代4番打者「末次利光」のプロフィール

1965年に読売ジャイアンツ(以下、巨人、巨人軍)に入団。1966年から一軍に定着するが、外野手層の厚い巨人では準レギュラーが長かった。しかし1969年には右翼手の定位置を獲得し、1970年には規定打席(25位、打率.249)に達する。川上哲治が監督として率い…

読売ジャイアンツの第36代4番打者「柴田勲」のプロフィール

1962年に読売ジャイアンツに入団。投手成績は芳しくなく0勝2敗で「投手失格」の烙印を押される。そして野手に転向し左打ちに取り組み、スイッチヒッターとなる。 翌1963年にレギュラー獲得。以後は主に1番打者として活躍した。1968年には首脳陣の意向で、打…

読売ジャイアンツの第35代4番打者「森永勝也」のプロフィール

1958年に広島に入団し、1年目から中軸バッターとして活躍する。1962年には.307という2リーグ分裂後の最低打率で球団史上初の首位打者に輝いた。 1967年に宮本洋二郎との交換トレードで巨人に移籍。巨人では代打の切り札として活躍。この年、不振だった長嶋茂…

読売ジャイアンツの第34代4番打者「高倉照幸」のプロフィール

1953年に地元の西鉄に入団する。 1967年に読売ジャイアンツからの譲渡要請に応じ、宮寺勝利(プラス金銭)との交換トレードで移籍する。移籍一年目はONに続く五番・左翼手を任され、ONにもひけを足らない勝負強いバッティングで4割に迫る高打率をキープ。打…

読売ジャイアンツの第33代4番打者「田中久寿男」のプロフィール

1955年に投手として西鉄ライオンズへ入団。翌年に野手へ転向する。 1961年からは右翼手、三番打者に定着して西鉄打線を支える。強肩で長打力もあり、中西太が故障し、豊田泰光がチームを離れた後の中心打者と目された。 1966年に船田和英とのトレードで読売…

読売ジャイアンツの第32代4番打者「吉田勝豊」のプロフィール

1956年の都市対抗に井洋雄投手を擁し四番打者として出場。1回戦で本塁打を放ち富士鉄室蘭を降すが、2回戦で日本コロムビアに9回サヨナラ負け。日鉄二瀬のチームメートには古葉竹識、江藤慎一らがいた。 1957年に東映フライヤーズに入団、1年目から左翼手とし…

読売ジャイアンツの第31代4番打者「相羽 欣厚」のプロフィール

1962年に読売ジャイアンツに入団し主に代打を中心に活動した。1964年6月17日の中日ドラゴンズ戦に左翼手として出場していた際、ジム・マーシャルの大飛球をジャンプして取ろうとした直前レフトスタンドのファンが身を乗り出してこのボールを取ってしまった際…

読売ジャイアンツの第30代4番打者「森 祇晶」のプロフィール

1955年に読売ジャイアンツに入団。 1959年藤尾茂からレギュラーを奪い、以後引退するまでジャイアンツ正捕手の座を守り続けた。当時の監督水原茂は森の緻密な守備力を高く評価し、森のレギュラー起用を決めた。 川上哲治は森のキャッチャーとしての力を高く…

読売ジャイアンツの第29代4番打者「池沢義行」のプロフィール

1962年(昭和37年)に読売ジャイアンツへ入団。1年目から公式戦に出場、2年目にはレギュラー外野手として113試合に出場した。この年(1963年)は1試合だけだが、4番も経験している。1963年(昭和38年)8月11日の阪神タイガース戦では、リリーフで登板した村…

読売ジャイアンツの第28代4番打者「王貞治」のプロフィール

1960年4月26日後楽園球場での宇野光雄率いる国鉄との6回戦 (ダブルヘッダー第2試合)での村田元一が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げ、打球はライトスタンド最前列に落ちた。公式戦初安打が決勝2ランホームラン (出場11試…

読売ジャイアンツの第27代4番打者「国松彰」のプロフィール

同志社大学在学中の1955年に投手として読売ジャイアンツに入団し、1957年から外野手に転向。ON砲の脇を固める巧打者としてV9時代を支えた。1961年には監督推薦で、1963年にはファン選抜でオールスターゲームに出場した。1970年に現役を引退し、1971年~1973…

読売ジャイアンツの第26代4番打者「坂崎一彦」のプロフィール

1956年に巨人に入団。打法をコンパクトなフォームに変え、3年目の1958年に108試合に出場しレギュラーに定着し、初めてオールスターゲームに出場する。 1959年には主に五番打者を務め、打率.284、15本塁打、64打点を記録、ベストナインを受賞した。同年の天覧…

読売ジャイアンツの第25代4番打者「長嶋茂雄」のプロフィール

1958年4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。 長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、…

読売ジャイアンツの第24代4番打者「与那嶺要」のプロフィール

1951年読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日し、入団。日本プロ野球では戦後初の外国人選手となった。1イニング3盗塁(日本タイ記録)や併殺崩し、本塁でのクロスプレーなどで本場仕込みの走塁技術を発揮し、同年シーズンは規定打数不足な…

読売ジャイアンツの第23代4番打者「柏枝文治」のプロフィール

ハワイ準州(Territory of Hawaii)のフェリントンハイスクールを卒業後、ハワイ朝日というアマチュア野球チームでプレーした。1953年に読売ジャイアンツ(巨人)に入団。巨人では宇野光雄が国鉄スワローズに移籍した後、三塁手のレギュラーポジションを獲得…

読売ジャイアンツの第22代4番打者「藤尾茂」のプロフィール

1953年に読売ジャイアンツに入団。 1955年に51試合にマスクを被って打率.286と打ち、同年の南海との日本シリーズでは、巨人が1勝3敗と追い詰められた第5戦に広田に代わってマスクを被って3番に抜擢され、初回に先制3点本塁打を放つ活躍で巨人の日本一に大き…